こんにちは、東大和市ボディ&ソウルケア整骨院シエスタです
先日、お休みをいただいて
月一回恒例の
有機野菜塾に行ってきました(^^♪
何度も通っている
田んぼ沿いの道に
ポツンと立っている石碑が
何故か、どうにも気なったので
近づいて
よくよく見てみると
「文久三年発亥年
六月建之」の文字が掘ってあり
文久三年(。´・ω・)?
江戸時代か~い(/・ω・)/
反対側には
「雨降山
當哥謹中」の文字
なんだこれ?
雨乞いの石碑か?
うちに帰ってから調べてみるも
いまいちピンとこなくて
AIさんに聞いてみることにした
文久三年(1863年)
この石碑は何のために作られたのか?
AIさんが言うことには
雨降山は神奈川県伊勢原市にある
霊山「大山(雨降山)」を指すことが多く
江戸時代には「大山詣り」が盛んで
関東各地から人々が参拝に訪れ
道中に石碑や常夜灯を立てる習慣が
あったんだそうな(●´ω`●)
さらに突っ込んで聞いてみる
江戸時代に雨降山(大山)詣りが
盛んだったのは何故か?
信仰、社会、娯楽の背景があって
雨降山は雨乞いの霊山として
農民に信仰されていたこと。
修験道の霊場としても重要だったこと。
今でいう町内会や職業団体が
費用を積み立てて集団で
参拝する文化が広がっていたこと。
この時代、圧倒的比率で農民人口が
多いはずだし
田んぼも畑も雨が降らないと
危機的状況になるわけで
イメージとしては農家さんの
団体旅行と雨乞い祈願の
両方を満たしてたのかもね(*´ω`*)
社会的背景としては
江戸幕府が修験者を警戒して
山内を粛清し麓に御師集落を形成した。
それが信仰の拠点となって
庶民の間に大山詣りが広がったと(*’▽’)
御師って御祈祷師の略で
参拝する人や信者のために祈祷や
案内をして参拝や宿泊などの
世話をする神職のこと。
今でいう観光ガイドみたいな(*^_^*)
伊勢神宮の御師がとても有能で
宣伝広報に長けていたって話を
聞いたことがある
だから江戸時代には
約60年周期で計3回
爆発的なお蔭参りが起こったのか?
ホントの理由は分からんけど(;^ω^)
江戸からお伊勢参りに行くと
片道15日から20日くらいかかるけど
大山詣りは江戸から往復で5日くらい
帰りに江ノ島に寄り道したり
レジャーを兼ねた旅だったそうです。
仲間と同じ行衣(白装束)を着て
参拝するスタイルが江戸庶民の「粋」
だったんだってさぁ~( *´艸`)
今だと同じTシャツ着て
バイクでツーリングするのと一緒?
江戸の人口が100万人だった時代に
年間20万人以上が
大山詣りに訪れたそうで
江戸だけじゃなく関東全域から
参拝者が来てたみたいだけどね。
大山詣りは信仰の旅であり
仲間とのレクリエーションでもあり
江戸庶民の文化だって
AIさんはまとめてましたね(*^_^*)
神奈川県伊勢原市の大山詣り
大山阿夫利(あふり)神社
今もお参りすることができます(*´▽`*)
文久三年(1863年)
今から162年前に建てられた
石碑が残っていて
今も大山詣りができるって
ちょっとロマンを感じる(*^▽^*)
さらに突っ込んで
「なぜ江戸幕府が
修験者を警戒したのか?」とか
AIに聞いてみると面白い話が
出てくる出てくる( *´艸`)
これはもうちょい深堀してみます。
AIじゃなくて
ダックダックゴーさんで
1863年に
起こったことを調べてたら
文久三年三月四日、徳川家茂上洛
文久三年三月十三日、新選組結成
幕末ですね~(・ω・)ノ
幕末好きなんですよ~アタクシ
さらにさらにほじくると
武蔵の国の北部(埼玉県)から
浪士組に参加した人達の資料も出てきて(@_@)
氏名、年齢、何番組所属か
家族構成、出身地、流派が記載してあり
神道無念流とか
甲源一刀流とか
当時は新選組でも
新撰組でもなく
新徴組と呼ばれていたことがわかる。
京都に上って残った人達が
新選組になっていくんだろうね。
小説、漫画、テレビ、映画
どれを見ても新選組の
局中法度は厳しくて
脱走したら切腹ってなってるけど
浪士組の資料を見ると
「依願永暇」ってあるから
普通にお願いして
お暇をもらったりしてるようです。
中には酒癖が悪くて素行も悪くて
「浪士一統の名聞を汚し候儀不埒の至りに付き
腰刀取上げ放逐せしむるもの也」って人もいて
後で詫びを入れて許してもらったけど
「江戸に帰っても不都合な振舞い多く
永の暇を申し渡された」
ようはクビですね(;^ω^)
そんな人もいたようです。
面白いね~♪
道端の石碑を調べてみたら
いろいろ出てきて
楽しくなっちゃいました(●´ω`●)
東京都東大和市の整骨・整体 シエスタ 院長 宇山由紀恵